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大学によって異なる入試と入試改革の必要性について
「選抜」から「相互選択」へ,入学者選抜の転換を図りたいとする方向性は評価できる。しかし,すでにわが国の大学は相当程度多様化しており,入試改革の必要性も大学によって異なるといわざるを得ない。依然として競争選抜を念頭に入試を考えなければならない大学もあれば,学生の多様化に対応して大学入学の最低資格をいかにして確保するかという点で頭を悩ませている大学もある。したがって,入試改革の提案もまた,それがどのような大学を念頭においているかによって,受け止め方もそれぞれに異なることから,その点を十分踏まえてなされる必要があろう。
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2. |
大学及び高校教育改革と連動した入試改革を望む
大学関係者にとって,今日差し迫った問題のひとつは高校以下の準備教育と大学教育とをいかに連携させ,接続させるかである。そのため,入試改革は何より現在進行中の大学教育改革と整合的な内容でなければならない。また高校教育においても,教育内容の個性化,ゆとりの創出など,多くの新しい課題が突き付けられ,それに比例してスケジュールはますますタイトなものとなっている。そのため,大学入試日程の前倒しなどは,改革策の如何にかかわらず,強い反発を招くのがつねであった。したがって,大学入試センター試験(以下「センター試験」という)の複数回実施などは,大学関係者の要望と異なるばかりか,高校の教育スケジュールに対しても大幅な変更を強いるものであり,このようなセンター試験改革が,はたして今日最優先されるべきものであるかどうか,疑わしいといわざるを得ない。
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3. |
センター試験の制度的整備を望む
センター試験は選抜試験ではなく高校教育の到達度評価(高校教育の基礎的な達成の程度を測る),選抜資料の一部とするという理念のもとにスタートした。しかし,実態としては,おおかたの大学において大学入学者選抜の(選抜)試験として利用されている。この矛盾は単に大学側の解釈の違い,理解不足といったことに帰せられることではなく,高校教育の到達度評価を大学入試センターとして行うという根本的な事由にもどって検討するべきことでもある。また,具体的にいえば,かねてより要望されている生物と物理の選択を可能にする,またセンター試験の成績の事前開示を実現するなど,センター試験制度の整備の観点から解決が図られなければならないことも多く存在する。
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4. |
センター試験を資格試験的に利用することの非現実性
センター試験をその制度的な理念にしたがって,高校教育の到達度評価であるとするなら,センター試験を1次の選抜試験として用いる資格試験的な利用はこれと矛盾する。また,センター試験の得点に関して,各大学,学部がその資格基準を事前に明示する手続きについても,試験問題も,志願者数の程度もわからずにそれを実施することは現実的とはいえない。唯一可能なのは,資格基準をできるだけ低く設定し,それを公表することであるが,それでは入学者選抜の判定は個別試験の結果のみに依存し,センター試験を実施する意味はほとんど無くなる。一点刻みとの批判もあるが,センター試験と個別試験の結果を組み合わせ,総合して評価するという方式はむしろ大学関係者の評価を得ている。工夫,改善の余地はあるにしても資格試験的利用よりも,より現実的な有用性を尊重したい。
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5. |
センター試験の技術的課題の解決を先行すべし
提案されている,センター試験成績の複数年利用にせよ複数回実施にせよ,試験問題の等化,成績の標準化など,共通試験として解決すべき技術的課題がまず優先されなければならない。これらの解決なしに,「良いほうの成績を採用する」,「資格試験的な利用をする」といった個別的な対応を先行させることは混乱を助長し,これまでに培われてきた共通試験への信頼性を失いかねない。また,「公平性の見直し」についても,それは受験生,社会の受け止めかたに依存するところであり,それなしには意味があるとはいえない。
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6. |
やり直しの基本は年齢主義の打破ではなかったか
「やり直しのきく入試」という主張は元来,年齢主義の打破にその根拠を置いていた。社会の生涯学習化のもとで,いかなるライフステージにおいても大学教育にアクセスでき,それを享受できることを「やり直しのきく」教育システムと表現してきたはずである。しかし,中間まとめでの「やり直し」の議論はひたすら受験機会の複数化,それも新卒者の「やり直し」に終始しているかに見える。受験機会の複数化についていえば,国立大学においても,分離分割の徹底,推薦入学,AO入試の導入など,受験機会の複数化は十分にその実をあげているといえる。その意味で,提案されている「やり直し」がそれほど強い社会の要請とは考えにくい。
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