1. 実践的指導力への要請と対応
教員免許基準の改定により、各大学の教職課程のカリキュラムが遅くとも平成12年度から大幅に改訂される。それはこの20年余の間に徐々に進められてきた教員養成における実践的指導力養成への一つの到達点となるものであり、戦後教員養成史の転回点となるものだろう。もちろんいつまでも“戦後”などと言っているほうがおかしいのだろうが、時代の大きな変化が目前に迫っている。
しかし、アンケート結果にみるかぎり、大学側にはまだまだその自覚は薄いように感じられる。実践的指導力への要請は徐々に進められてきたものだし、大学側はカリキュラム編成の自主権を失っていたわけではないから、その都度なんとかそれを大学側のペースでこなしてきたという経過があって、今回もその範囲のことと理解し、そのための条件整備を訴えるというパターンから抜け出せないでいる。何よりもしばらく前までは採用(需要)と養成(供給)との間に、とにもかくにもバランスがとれていたから、それほど実践的指導力への要請にそんなに神経質にならないで済んでいたのである。事態は予想をはるかに越えてドラスティックに進行してしまった。需給関係のアンバランス、特に需の極少化に国立大学の設置形態変更という問題がかぶさって、教員養成の現場に採用というプレッシャーがすべてを越える力をもって迫っている。今回の教育職員養成審議会の答申がその第3次において実践的指導力を前面に押し出して、採用の課題と大学の教職課程の体質変革を提出していることはまさに象徴的である。
戦後の教員養成の場が、師範学校から脱皮し大学となることから出発したことはここで言うまでもないことである。「大学における教員養成」、「開放制教員養成」の理念(イデオロギー)がそれを支え、促進した。その良し悪しを云々しても仕方がないが、それがひたすら実践的指導力の養成から離脱する道程であったことは確認しておかなければならないだろう。その時まで日本には「大学」のモデルは「帝国大学」しかなかったし、ポスト師範学校の教員養成の場に供給される教員たちは、たいていその「帝国大学」を引き継ぐ大学や大学院の出身者で占められたからである。そのように人的構成が変化することこそが「大学」となることと理解されていたはずである。そこでは教育と研究は分離され、後者が至上命題となった。そして大学の教員の採用と昇進のシステムがそれをいっそう強化することになった。
1965年の東北大学教員養成課程の分離による宮城教育大学の設置、それに続く当時「新構想」教育大学と呼ばれた3教育大学の設置は、基本的には教員養成における実践的指導力養成を現実化しようとする試みであった。後者においてはさらに大学院レベルの現職再教育が提起されることになった。こうした施策は、当時の情勢下では一定の刺激剤とはなっても、教員養成と現職教育の動向を決定的に左右することにはならなかった。
特に宮城教育大学は小学校教員養成への特化を掲げ、入試、学生処遇、カリキュラム、教科教育人事等でマスコミの注目を集めながら、教員養成における実践的指導力養成の道を歩み出したが、当時まだ全体の情勢は「大学化」に向かう流れであり、それに抗するほどの力量を持ち得ず、早すぎた大学改革への反動もあって、その後はこの課題をめぐって全国への発信の機会もないまま今日に至っている。
昭和63年の教員免許基準改定は、教員養成における実践的指導力養成への序幕であったが、この間、大学側は国立、公立、私立の別なく従来の流れの延長線として対処することに止まり、自らの課題として、自主改革に取り組むことが少なかったことは、国立大のケースに限るとはいえ本報告書のアンケート集計結果が示している通りである。わずかに国立単科教育大学において、教員養成と現職教育に生きるしか大学としての道が残されていないという危機感から、実践的指導力養成へ向かって舵を切り始めたくらいであった。
しかし、最初に述べたように平成11年基準改定は、教育職員養成審議会第3次答申とあいまって、国立教員養成大学・学部の学生・教官定員削減の実施、さらに予想される教官削減と設置形態変更問題が背景になって、従来とは違った質と量で教員養成の現場に、実践的指導力養成への転換を迫ることとなる。
2. 実践的指導力養成実現への課題
教員養成の現場において、実践的指導力養成を実現していくために課題は多い。それは大学・学部の“体質改善”と呼ぶしかないほどに重く、大きい。その中でポイントとなるものを二つ挙げるとすれば、@自前で教員ポストを用意できるか、Aふさわしい人材を得ることができるか、である。
従来、教員養成のカリキュラムは三つの固まりとして理解されてきた。a教科専門、b教科教育、c教職専門である。cの中で教育実習を特立する場合もあるが、それでも四つの固まりとまでは言われては来なかった。
実践的指導力養成への要請は、原理的にはa教科専門にも及ぶものであるが、この課題はさらに先のこととして、まずb教科教育とc教職専門とに関わる課題について考える必要がある。
教員養成大学・学部には、必ずa教科教育の教員ポストが置かれている。問題はそのポストにふさわしい人材を得ているかどうか、今後引き続きそれを得ることが出来るかどうかである。
師範学校から移行した時期には、教科専門を担当するには問題があるという人たちが教科教育ポストに廻るという傾向が顕著だったが、その人たちが去った後はそのポストを教科専門に充てるという傾向へと変化する。例えば算数・数学科教育のポストに解析学や代数学の教官を充てる、というようなことである。たいていの大学・学部の学内体制では、b教科教育はa教科専門の教員たちと同一グループを組んでいる場合が圧倒的で、教科教育による独自なグループや教職専門に組み込んでいる例はきわめて少ないことがこうした傾向を助長したとも言える。こういう傾向に歯止めがかかり、教科教育固有の人材が求められるようになるのは、教員養成大学・学部の修士課程設置の課題によってであった。つまり外部審査に耐えられる人材が必要とされることになり、新しいポストに空席があれば教科教育に実績がある教員を迎え、ポストがなくても、当時まだ教員定員に余裕があった時代だったので、定員を運用して新しい教科教育の教員を迎えるという事例が多かった。今では国立教員養成大学・学部では基本的には、各教科毎に複数の教科教育担当者を置くようになっている。
こうした過程でその人材はどこから求められたか。ア初等・中等教育の現場で特定教科についての実績を挙げていた者、イ教科専門の教員の中でその教科の教育法などで実績を挙げていた者、ウ教育学系の大学院で教育理論・方法を研究していた者で特定教科に研究実績を持つ者、であった。この三者が数的にどのような比率になっているか、厳密な調査がないから確言はできないが、イが多く、次いでウではないかと推測される。ウの場合では人文社会系の教科ではかなりの数の例があるが、理数科、芸術系ではきわめて少ないはずである。アではこれまでは民間教育運動の中で実績を挙げた人々が大学に招かれるケースがほとんどで、今やこの流れはほとんど消滅しつつある。
今後の課題の一つは、アにおいてどこまで人材が生まれるか、そして大学側が従来の業績評価法に拘泥しないで新しい観点から人材を求める決断ができるかどうかである。もう一つは、教員養成系の大学院がどこまで人材養成ができるか、である。発足間がない博士課程からまだ人材が育っている兆候はない。しかし、今後ここに期待しなければ実践的指導力養成を実現することは困難であろう。アの人材が教員養成系大学・学部の博士課程でさらに実績を挙げて次代の教員養成の現場を担うようになることが求められている。
教職専門科目の担当者は、これまでおおむね旧帝大、旧文理大の伝統を引く教育学部大学院の出身者によって占められてきた。今後この傾向に変化が起きるかどうかはわからないが、こうした大学院における研究・教育は必ずしも実践的指導力への力量形成に焦点化されてはいない。むしろある時代の実践重視から、大学院大学化が進行する中で研究重視がむしろ強化されつつあるし、こうした大学院担当教員が主流を占める全国学会の流れも研究論文重視を強めている。教育職員養成審議会第3次答申が提起しているように、前記した教員養成系大学・学部に設置された博士課程が、この分野の人材も輩出するようになれば、教員養成系大学・学部を出身者の就職シェアにしてきた大学院大学の教育学部も競争にさらされるようになるはずである。そのとき、新しい変化が生じることになるかどうか、それが今後注目点になるだろう。
教職専門科目に関しては、実は新しい科目、それはすべて現場の課題対応、実践的指導力養成に関わるものであるが、この教員を得るためのポストが不足していることが大きなネックとなっている。教員免許基準改定に伴って教職科目に新しい科目が新設されるが、当然新しい教員ポストは増設されない。それどころか、教員定員削減が実施される中でこの分野でも削減が起こっている。少なくとも増員は期待できない。そういう中でほとんどの教員養成系大学・学部では非常勤講師に頼ることになる。それが現場の経験者を大学に招く契機となっていることもあるが、専任教員のいない分野、科目が学生に与える影響力は薄い。こういう事態では新しい、実践的指導力養成のための科目も形式化し、空洞化をまぬかれない。各教員養成系大学・学部が限界のあるポストの中でどこまで実践的指導力対応に向けて転換していけるか、それが教員養成の実質をつくることになるし、そこにその大学・学部の生き残りもかかっているのではないか、と思われる。
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