68号 OPINION 特集【医学・生命科学系の先端研究】
ELSIも考慮しつつ社会実装を目指す 医学・生命科学の先端研究
慶應義塾大学 医学部生理学教室 教授 東京大学 医科学研究所 教授
岡野 栄之 武藤 香織
iPS細胞の登場以来、目覚ましい進歩を遂げている再生医療。
岡野栄之氏はその臨床応用に向け、大きな成果を上げている研究者の一人だ。
一方で、医学・生命科学研究は、社会全体に関わる倫理的・法的・社会的課題(ELSI(Ethical, Legal and Social Issues))を提起する。
武藤香織氏はこのELSIという難問に取り組んできた。
再生医療をはじめとした医学・生命科学の先端研究の到達点と、これからの医学研究の姿について語り合っていただいた。
再生医療が臨床に近づいてきた今 患者さんを治すために
岡野:私は1983年に医学部を卒業し、生命科学の基礎研究に進んで40年になります。
最初は神経の発生メカニズムを解明するため、慶應義塾大学医学部生理学教室でマウスを使った研究を始め、次いで発生を司る遺伝子を見つけようと、米国ジョンズ・ホプキンス大学に留学してショウジョウバエを使った研究に取り組みました。その中で1998年に発見したのが、細胞の運命を決定づける遺伝子Musashiです。この遺伝子を使うとヒトの神経のこともよくわかるのではないかと考えたのが、研究のテーマを基礎的な生命科学から人間を対象とした医学に切り替えていくきっかけになりました。
その後日本に戻って研究を進め、ヒトの成人の脳に神経幹細胞があることを発見しました。それまでは、中枢神経系は一度損傷すると再生しないと考えられていましたが、わずかながらも幹細胞があるとなれば、ひょっとすると中枢神経系も再生できるかもしれない。そう考えて、神経の再生というテーマに力を入れて研究をすることになったのです。
大々的に脊髄の再生研究を始めたのは2001年のことでした。最初は脊髄を損傷したラットにヒトの幹細胞を移植して運動機能の回復を認め、サルでも同様の効果を出すのに成功。次はいよいよヒトの臨床だと思ったわけですが、そのときに突き当たったのが倫理の問題でした。
神経の再生を目指すには、神経幹細胞をある程度の量まで増やしてやる必要があります。ところが大人の神経幹細胞というのは、ごくわずかしかないうえになかなか増えてくれません。ここで有効なのが胎児由来の細胞でした。これは非常にパワフルで、よく増えるからです。我々としては、移植後の安全面の問題にさえ気をつければこの方法で研究を進められると思っていました。
しかし、臨床研究に関する倫理審査委員会ではこのことが大きな議論の的となり、結局、胎児由来の細胞やES細胞は採取にあたっていろいろデリケートな問題があるということで、研究に使用するのは時期尚早という結論になったのです。「これがELSI問題か」と実感した初めての出来事でした。
胎児由来細胞が使えないとなると、臨床応用にまで持っていくのは難しい。「これ以上研究を進められないのか」と途方にくれましたが、そんなときに登場したのが山中伸弥先生らのiPS細胞でした。私たちは既に、ES細胞から神経幹細胞を作ることに成功していたので、それをiPS細胞から作ることができれば、胎児由来細胞をめぐる倫理の問題にとらわれずに研究を進めることができる、と考えたのです。
こうして、iPS細胞由来の神経幹細胞を脊髄損傷の治療に生かす研究が始まりました。
もちろん、それも一筋縄ではいきませんでした。できたばかりのiPS細胞技術はまだ不完全で、腫瘍化などのリスクも高かったからです。しかし、様々な課題を乗り越えて技術は進歩していき、iPS細胞の安全性も向上しました。その結果、2021年には、世界で初めて、iPS細胞から作った神経幹細胞を脊髄損傷の患者さんに移植。かなり良い結果が出てきています。さらには細胞の移植だけでなく、高度なニューロリハビリテーションによって神経を活性化することで、かなりの回復が見込めることも確認できています。
もうひとつ、iPS細胞によって進んだのがALSの治療薬の探索です。iPS細胞というのは、疾患を持つ人からも作ることができるので、患者さんの細胞からiPS細胞を作れば、その患者さんの体で起きている現象を試験管の中で再現することができます。このことは、ALS患者さんのiPS細胞から病気の神経細胞を再現し、効果のある薬を探索することに役立ちました。こちらも、まずは20人の患者さんを対象に大学内で医師主導治験を実施して効果と安全性を確認し、治療効果についても一定の成果が確認できるところまで来ています。ここまで来ると次は社会実装ということになりますが、そのためには薬事承認を得なければいけません。現在はそのために必要な100例規模の第3相治験に向けて準備をしているところです。
こうして、もとは基礎研究だったものがだんだん患者さんに届くところまで近づいてくると、インフォームド・コンセントの問題や、患者さんの体からiPS細胞を作るための倫理審査委員会の了解を得る必要がありますが、これらはなかなか至難の道なので、クリアすることは諦め研究だけで終わってしまって社会実装に至らない論文もあります。しかし医学の研究は患者さんを治すためのものなのですから、研究しただけで終わるのではなく、患者さんたちへ成果を届けることを考えていく必要があると思っています。
社会からの孤立や偏見に苦しむ患者と 先端医療に取り組む医療従事者、 その架け橋のような存在に
武藤:大学では、初めジェンダーやゲイ・レズビアンの人々の家族形成に関心を持ち、家族社会学の研究をしていました。医療の倫理に興味を持ったのは、大学3年生のときに自分について誤診を経験したことがきっかけです。その後医療従事者でない自分も、患者の視点で医療をより良くできないかと考え、大学院に進学しました。当時は文系の立場でそのような研究をできる場所はほとんどなかったのですが、社会学の一環として医療の倫理を取り扱わせてもらいました。
そして生殖補助医療に関する法制度がヨーロッパで整い始めたタイミングで、イギリスで学ぶ機会を得ました。イギリスでは、既にヒト胚の研究を認可制で行えるようになっていたため、どのような議論が行われたのかを修士論文としてまとめました。生殖補助医療とヒト胚の研究を同じ法律の中でカバーしている点が非常に画期的でした。その後何十年も経ちましたが、今、ミトコンドリア置換やゲノム編集といった新しい技術についてもその当時と同じ法律で扱っている点が素晴らしいと思います。私がイギリスで学んだ1993年は、イギリスでは既に生殖補助医療やヒト胚の議論は片がつき、遺伝子解析技術の議論が始まろうとしていた段階で、そんな古い話を聞きに来られてもという雰囲気があり、日本はまだそこにも追いついていなかったため大変驚きました。
その後、遺伝性疾患の人々にとってゲノム解析や遺伝子学的検査がどういう意味を持つのかということに関心を持ちました。博士課程ではハンチントン病と家族性アミロイドポリニューロパチーの患者や家族が遺伝学的検査についてどう考えているか、どう利用されたくないか、どう利用したいと思っているかを研究しました。当時そういった患者さんたちは、自分の意見を人前で言うチャンスがほとんどなく、患者会を作ることも難しい状況でした。差別を恐れ、治療法がないけどそれが当たり前だと思って、自分たちの内なるスティグマに苦しんでいる人々と、難病で治療法がない人たちのために、なにか抜本的な医療介入ができるようにするために未来を見て頑張ろうとする岡野先生のような人々とのギャップをどう埋めていったらいいのか、ということをずっと考えてきました。
再生医療をめぐる倫理的な議論では 結論の出ない課題がタブー化している
武藤:生命倫理をめぐる問題では、一度タブー扱いになったテーマがその後二度と議論されない、ということは日本ではよくあります。例えば、死亡胎児の研究利用はヒト幹指針(※1 )では認められず、その後施行された再生医療の安全性確保法(※2 )では議題としてちゃんと拾われることはなく、ゲノム指針(※3 )やその後の生命科学指針(※4 )でも議論の対象にすらなっていません。
また日本では、こうした医学分野における倫理的な問題には法律ではなく行政指針で対応してきたのですが、それらは目的別、素材別、技術別になっていて、急速なイノベーションに耐えられないものになっているという実態もあります。日々新しい研究分野が生まれている中で、どの指針でもカバーできない分野が出てきてしまうわけです。そして、指針に書かれていないことは、許可もされていないが禁止する規定もないという状態になっています。
岡野:死亡胎児の研究利用については、研究者もどう動けばよいのかわからず研究自体がストップしてしまっているような状況です。こういった状況を打破するためにも、我が国でも、医学分野の研究者がどういう倫理的な基準で考えるべきかという議論をした方がよいでしょう。
武藤:議論のヒントになりそうなのがPPI(患者・市民参画)という仕組みです。2010年頃からは、開発研究のより早い段階から、当事者である患者や研究に影響を受ける人の意見を入れて研究を進めようとする流れができてきています。その方たちが良いと言えば良いという話ではありませんが、当事者だからこその研究への期待、我々が思いつかない懸念もあり、そうした市民的な論点がある。それを議論に取り込むことで、この何十年かの間にタブーになってしまったことを、なんとかもう一度議論し直し、若い世代の生命科学の研究者に伝えていきたいですね。
岡野:タブー化したまま次の世代に渡してしまうと、そもそもなぜそれが議論されていないのかすらわからなくなってしまう。そうはしたくありません。
また、iPS細胞を用いた研究では、提供者本人に対して「どこまで情報を開示するか」というインフォームド・コンセントは不可欠です。とくに、現在は特定の疾患を持った人の細胞からiPS細胞を作り、病態を研究するという手法がありますが、こうした場合はゲノム情報と紐づくので、個人情報をどうするか、産業利用をどうするかを事前に決めておく必要があります。さらに、ブラストイド(ヒトの多能性幹細胞から作り出した、受精卵を模倣した構造)や脳の複雑な構造まで作れる技術が出てきたことで、それらをどこまで認めるのかといった新しい議論も急激に広がっています。技術の発展に伴ってELSIの問題がどんどん出てきているのです。
武藤:以前からの問題の積み残しと今後の問題を全部解決しなければならないわけです。
現状では、iPS細胞の産業利用のための規定をどうするかも大きな問題です。現在の規制では、学術研究のための利用はできるのですが、産業利用については明示的に書いていないと許されません。しかし産学連携が当たり前の今、産業利用を許さない規制のままでは研究自体が進められない。私としては、研究が進み、多くの人の協力の下サンプルも情報も幅広く役立てられるのだということ自体を、世の中にもっと知ってもらうことが大事なのではないかと思っています。
ELSI=研究のブレーキではなく 生命科学研究者と共に考える存在
武藤:私は出身が社会学なので、科学が社会に開かれることはとても大事だと考えています。科学者の皆さんには「社会に開かれる中で接するであろう、様々な価値観に対して謙虚であってほしい」とは思いますが、決してブレーキを踏みたいばかりではありません。
若い科学者には、「ELSIは自分たちには関係ないのでそちらでやっておいてください」と言う方もいて、それでいいのかと思います。私としては「一緒に考えましょうよ」と言いたい。
教育の場面では、医学系の学生と生命科学系の学生の認識の違いも感じます。学生には「皆さんにサンプルを提供した方たちが、どんな気持ちでサンプルを提供したか、その方たちにどんな苦労があるかを想像してくださいね」と話すのですが、生命科学系の学生には「なぜそんなことを考える必要があるのか」という反応をする人もいるんです。
岡野:それは驚きですが、実際に体験しないとわからないのかもしれませんね。僕自身も外来に出るわけではないですが、細胞を提供してくださった患者さんにお会いして話をする機会はあり、「この方の細胞をいただいているのか」と実感するからこそ「頑張らなくては」と思うのかもしれません。
武藤:そのように考えてくれる人が一人でも増えると嬉しいのですが……安心して対話できる環境づくりも大切だと思っています。
医の中核として、倫理面での助言者として 全国に点在する国立大学が担える役割
岡野: 先ほど、ALSの治療薬で大規模な治験が始まるとお話ししましたが、こうして基礎研究が患者さんに届く段階に近づくと、これまで大学内で行ってきた医師主導治験とは異なり、外部のパートナーが必要になります。製薬系のスタートアップ企業を作る必要も出てくるでしょう。そうした枠組みができてこないと、社会実装が止まってしまいかねません。
また、一時よく言われた「選択と集中」については見直すべきでしょう。コロナ禍中に明らかになったワクチン分野での日本の弱みは、まさにその選択と集中で削いでしまった部分です。今まさに研究のダイバーシティを認めないといけないのだと思います。
国立大学は、地域の経済的なエコシステムをつくる存在でもあり、地域産業を盛り上げていく役割を担っているはずです。とくに各都道府県の医の中核を担う国公立の医学部にはぜひ栄えていただきたいものです。
武藤:私は2020年2月初めに政府のCOVID-19対策の会議に入って3年間、様々な課題に取り組んできましたが、例えば人工呼吸器のような集中治療設備が足りなくなったとき誰から優先して付けるのかといったことについて、国として関わることなく全部現場任せになってしまいました。その結果、地域ごと病院ごとに基準が異なり、医療の現場には精神的にも大きな負担を強いることになった。国立大学には、ぜひ平時から倫理の専門家を置き、いざというときにアドバイスする役割を担ってほしいと思っています。
岡野: 2000年代前半には、最先端の科学のことをよくわかっていない人がELSIの議論をしていて、マッドサイエンティストのように言われた時期もありましたが、その後、サイエンスとELSIは互いへの理解を深めてきました。そうやって知識を最先端にアップデートしたうえで、何が人類にとっていいのかということを、我が国だけがガラパゴスにならないように考え、共に意見を発信していければと思います。どの学会も昔よりははるかにELSIを考えるようにはなっていますよね。
武藤:20年前にはあり得なかった光景ですが、最近は国に対して言っていくべきことが生命科学とELSIで共通してきたこともあり、「共通の敵」ができたのも良かったのかもしれませんね(笑)。
生命科学の皆さんには「互いに国民として物を言いに行きましょう!」とお伝えしたいです。
岡野:コロナ禍以前には、『再生医療ナショナルコンソーシアム』事業としてELSI分野の方や省庁の方とも交流を行ってきました。コロナ禍の影響でなかなか情報交換ができずにいましたが、これも復活させたいですね。
「医学は人類のために尽くさなければならない」ことに変わりはありません。そしてそれは一人ではできないこと。若い研究者の皆さんには、最高のチームを作って国際的に発信するように頑張ってほしいと思います。
武藤:あと、最後に、私から若い人に言いたいのは、異分野の人と交流してほしいということです。人文社会系の研究者には「急かされたくない」人が多いのですが、生命科学は日々変わるもの。その中で出てきた困りごとを受け止めて、不完全であっても何か答えを出す必要があります。人文社会系が関わることで、「医学系・生命科学系の人に何が見えていないか」を伝えることができる。振り回されることもあって大変ですが(笑)、それを楽しいと思って取り組んでくれる人が増えると嬉しいですね。
岡野 栄之(おかの ひでゆき)
1959 年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学医学部卒業後、大阪大学、ジョンズ・ホプキンス大学、東京大学、筑波大学を経て、2001 年慶應義塾大学医学部生理学教室教授に着任。2017 年より同大学大学院医学研究科委員長。研究分野は、分子神経生物学、発生生物学、再生医学、脊髄損傷の再生医療の研究。1998 年、ヒトの大人の脳にも神経幹細胞があることを発見、脊髄損傷における初の臨床研究では、2021 年 12 月、世界で初めて、ヒト iPS 細胞由来の神経前駆細胞を脊髄損傷の患者に移植するなど成果を上げている。2006 年文部科学大臣表彰(科学技術分野)受賞、2009 年紫綬褒章を受勲。
武藤 香織(むとう かおり)
1970 年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同社会科学研究科修士課程修了、1998 年東京大学大学院医学系研究科博士課程単位取得満期退学。2002 年博士(保健学)取得。米国ブラウン大学、信州大学等を経て、2007年東京大学医科学研究所准教授に着任。2013 年より同研究所教授。内閣官房新型インフルエンザ等対策推進会議委員。被験者・患者・障がい者の立場から見た研究倫理、医療倫理の課題に取り組み、医学・生命科学研究の推進、社会実装の過程に関わる政策や手続きにも関心を寄せている。
※1「 ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」。ヒト幹細胞を被験者に投与する臨床研究を対象にした、研究者等が遵守すべき事項が記されている。「再生医療安全確保法(※2)」の施行に伴い廃止。
※2「 再生医療等の安全性の確保等に関する法律」。再生医療等を実施する医療機関に対する規制を目的とした法律。
※3「 ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」。ヒトゲノム・遺伝子解析研究の現場で遵守されるべき倫理指針として策定されたもの。医学系指針(※4)の施行に伴い廃止。
※4「 人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」。ゲノム指針及び医学系指針(「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」)の適用範囲に、医学系以外の領域で行われる研究も含まれることから、「人を対象とする生命科学・医学系研究」として、定義を新設したもの。